歴史

【歴史】徳川家の母体である松平家は「松平親氏」によって乗っ取られたのか

 

どうも!アメシカです!

 

日本史を勉強するときに必ず登場する徳川家ですが、その徳川家を創設した徳川家康直系の先祖であり、徳川家やその母体である松平家の始祖とされる「松平親氏」について知っている人は少ないと思います。

 

また、この人物が本当の松平家を乗っ取ったという説があることを知っている人はもっと少ないのではないでしょうか?

 

そこで今回は、この謎多き偉人である「松平親氏」について解説していきます!

 

目次

松平家とは

 

「松平親氏」を解説する前に、徳川家の母体となった松平家を知らなければ意味がないので、まずはこちらを解説していきます!

 

松平家は、現在の愛知県豊田市松平町に室町時代に興った小豪族です。

 

この松平家から戦乱の世を終わらせ江戸幕府を築き上げた徳川家康などが輩出されるわけですが、資料は極めて乏しく、最も古い記録では三代目の当主である松平信光以降についてのものしか残っていないため、その起源などについては判然としない部分があるのが現状です。

 

松平家は、この三代目当主である信光の時代に勢力を拡大し、信光は自分の子供たちを分家させて各地に配置するようになりました。

 

この分家の一つが安祥松平家で、後に徳川家康が輩出されることになります。

 

実はこの部分も重要な事実なのですが、徳川家康の実家である安祥松平家は信光が分家させた家々の一つにすぎないので、宗家ではありません。

 

宗家であった岩津松平家は戦国時代の荒波に抗うことができず没落し、その当時数ある松平家の中で最も勢いのあった安祥松平家が宗家化し戦国大名になったのでした。

 

松平親氏とは何者なのか

 

松平家がどういう家かを解説したので、いよいよ「松平親氏」について解説していきます!

 

松平親氏の出自

松平親氏は、清和源氏新田氏支流で上野国新田郡新田庄得川郷の領主であった得川義季の末裔と称する時宗の僧侶であったと言われています。

 

そして、その系譜は以下の通りです。

得川義季→世良田頼氏→教氏→家時→満義→政義→親季→有親→親氏

 

という親氏に至るまでの立派な系譜があるわけですが、これは後世に徳川家によって粉飾されたものであるとされています。

 

その理由ですが、まず前提として、鎌倉時代以降の高い位の官職を狙う武家にとって、源氏の血脈を受け継いでいることが基本かつ最も重要なことでした。

 

そういう時代背景があったので、朝廷から官位をもらう際に清和源氏の名門である世良田家の系譜を、家康が無理やり始祖である親氏につなげて、自分は源氏の血脈を引く者であるとしたわけなんですね。

 

事実、公家や武家には本姓という自分の家が元々は何家であったのかを表すものがあるのですが、徳川家康は最初の段階では本姓を「藤原」としていましたが、朝廷から官位をもらうタイミングで「源」に変えています。

 

このようなことから、松平親氏が清和源氏の流れを汲んでいる可能性は低いと考えられています。

 

松平家の婿養子となるまで

松平家の婿養子となる前の親氏は、関東地方での戦に敗れ、追手から逃れるために時宗の総本山である清浄光寺に入って出家し、「徳阿弥」と称していたとされます。

 

その後、徳阿弥は家臣である石川孫三郎を従えて諸国を放浪し、三河国加茂郡松平郷に流れ着き、領主であった松平太郎左衛門少尉信重の客人となりました。

 

信重は徳阿弥の教養と武勇を高く評価して婿養子としたため、徳阿弥は僧侶を辞めて松平太郎左衛門尉親氏と名乗ったとされています。

 

なお、『松平家由緒書』では、信重から先祖を尋ねられた親氏が「私と申しますのは東西を定めずに旅する浪々の者でありまして、恥ずかしく存じます。」と返事をしたと記述があり、親氏が素性の知れない者であったと記録されています。

 

親氏が当主となってからの松平家

松平家の当主となり松平郷の領主となった親氏は、郷敷城を築いて嫡男である泰親と協力しながら近隣の領主たちを滅ぼしつつ勢力を拡大し、戦国大名としての松平家の基礎を築いたとされています。

 

また、親氏は教養があって武芸に通じ、信仰心が厚く慈悲の心が深い人物であったため、領内に菩提寺となる高月院などの寺社仏閣を建立したり、貧しい領民には援助を惜しまなかったと言われています。

 

松平家は親氏に乗っ取られたのか

 

個人的な見解ですが、真相としては

得体の知れない諸国を放浪している僧侶みたいな人を親切心で家に入れたら、いつの間にか家ごと乗っ取られていた。

 

ではないかなと思います。

 

ただ、歴史とは皮肉なもので、この親氏のおかげで松平家は後に天下を統一し戦国時代を終わらせた徳川家康を輩出する家柄となりました。

 

親氏が松平家を乗っ取って以降、急速に松平家は勢力を拡大し三代目当主の信光の時代には戦国大名となったのは紛れもない事実ですし、親氏が松平家を乗っ取っていなければ松平家は地方の一豪族で終わり、「徳川」という将軍家も誕生していないでしょう。

 

地方の領主の家とはいえ、一つの由緒正しい名家を乗っ取るくらいですから、親氏は相当な策略家であったかも知れませんし、末裔である家康の事歴を見ていると、しっかりと子孫に受け継がれているような気がしてしまいます。

 

まとめ:松平家は親氏に乗っ取られたが、それによって歴史に名を残した

 

歴史は常に勝者の都合の良いように編纂されて後世に伝えられます。

 

松平家に関しては、勝者は親氏です。

 

どのような形で松平家を乗っ取ったのかは現段階では分かりませんが、得体の知れない僧侶みたいな人が松平家という地方の一豪族の家を利用して強大な領主となり、その子孫たちが戦国大名となって最終的には戦国時代を終わらせた征夷大将軍を輩出するというほどですから、凄まじい人物であることに間違いないと思います。

 

また、こういった事柄は珍しいことではなく様々なところで聞かれることで、こういうリアルな人間模様が歴史をより一層深みのあるものにしているような気がしています。

 

それでは、失敬。

 

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